“こころ”の学校
ダンマ・バーヴァナー・プログラム
一切の“苦”からの
解脱を目指して
〜専科〜
ブッダの説いた究極の幸福(悟り)の探究と
そのダンマ(法・真理)実践修習のためのプログラム
目 的
ゴータマ・ブッダは人間でした。
「私は人間です」と自らおっしゃっているのです。
実在した人物です。
目に見えない概念的な存在ではありません。
その人間ゴータマ・ブッダが、生涯衆生に説き続けたのは、悟りへの具体的な道です。
善い癒し系のお話しだけをして、インドを回った講演者ではありません。
どちらかというと俗世間にとっては、厳しい、嫌なことを説いたと言えるでしょう。
ですから、挑戦者なのです。
悟りにダイレクトにつながる“説法”をされたのです。
神話やファンタジーの話しをされたのではありません。
悟りにいたる直接的で実践的な方法を説いたのです。
悟りはファンタジーではありません。
実際に存在する境地なのです。
一切の苦から解放されることです。
一切の苦から解放された、究極の幸福の次元に入ることです。
究極の“安らぎ”なのです。
ゴータマ・ブッダはその具体的な道・法を教えてくれた方です。
そして、その道・法は今なお存在しています。
その道・法を知り、理解し、実践することにチャレンジするのがこのプログラムの目的です。
現代の私たちはあまりにもその道・法から遠ざかっています。
つまり、無智なのです。
無智ゆえに“苦”が常につきまとうのです。
無智ゆえに本当の意味で幸福になれないのです。
そのような“無智”という闇から飛び出して、“智慧”という光につながらなければなりません。
このDhamma bhāvanā program(ダンマ・バーヴァナー・プログラム)の、
Dhamma:ダンマとはブッダの覚った法・真理のことです。宇宙・自然界の法則のことです。
Bhāvanā :バーヴァナーは修習と訳されます。また冥想とも訳されます。
ここではさらにその意味の真意から“自己開発(じこかいほつ)”とします。
いずれもパーリ語でこの言語はブッダがよく使われていたものです。
完全な形で現存する最古の経典といわれるものは、このパーリ語で編纂されたものです。
仏教はサンスクリット語(梵字)、漢字のイメージがありますがそうではありません。
このパーリ語が原点なのです。
ですから、パーリ語はブッダの肉声(真の言葉)に一番近いものと言えます。
このプログラムは、ブッダの肉声(真の言葉)に耳を傾けることを第一にしています。
パーリ語での表記が随所に出てきています。
さて、Bhāvanā(バーヴァナー)の真意である開発(かいほつ)とは、
「真実の智慧や真理を悟ること」を意味する仏教の言葉です。
ブッダにものを訊ねに来た人が「Bhāvitattaバーヴィタッタ」のお方と呼びかけることがありました。
それは、つまり「自己開発されたお方」ということなのです。
自己開発した人を仏教の目標を達成した人とみなしています。
自己開発した人は仏教で称賛を受ける人の中で最高であるとされています。
つまり、このプログラムはゴータマ・ブッダが覚った法・真理に依って、
自己開発(じこかいほつ)するためのプログラムということになります。
ゴータマ・ブッダの説いた悟り(ダンマ・法・真理)を探究し、
その教えを実践し、その境地に少しでも近づくことを目指します。
それが、私たちの人生を本当の意味で、豊に、安らかに、平和に、穏やかにしてくれる唯一のものだからです。
このように一切の“苦(dukkha)”から解放された自由自在な心の境地を、
じっくりしっかりと丁寧に育むことを目指すものです。
それによって、貴重で希有なこの人間としての生を、
いついかなるときも、豊かに安らかに平和に生涯過ごします。
人生を今一度深く見つめ、物事の真実(真理・真髄)を見抜き、“無智”のままこの生を終えることなく、
そこから飛び出し、“苦”を超える“人間”になることにチャレンジする方が対象となるでしょう。
ブッダの言う“超人uttari manussa”を目指すことにチャレンジするものです。
生命という“無智”を超える崇高な大事業にチャレンジしてみるのです
その大事業にチャレンジしようとするのが、このプログラムの目的です。
プログラムの土台となるもの
このプログラムは、ブッダの説いた教えが土台となっています。
ブッダの説いた教えですから“仏教”ということになるのですが、
ここで言うブッダの教えとは、ブッダの時代から完全に近い形で残されたパーリ語経典に基づいたものです。
その経典に基づき、多くの比丘(出家僧)と在家信者たちの努力により、
二千五百年間の長きにわたって実践され受け継がれてきたブッダの根本の教えのことを指します。
原始仏教、初期仏教、根本仏教またテーラワーダ仏教、上座仏教などと呼ばれています。
ですから、私たちが一般的に認識している仏教(大乗仏教)とは違ってきます。
ブッダの説いた肉迫した直接的で具体的な教えを土台にしています。
人間ブッダの生の声が聴こえてきます。
世の中にいる四種類のタイプの人びと
ブッダは世の中には四種類のタイプの人びとがいると説かれました。
1、闇から闇に走る人びと
2、明から闇に走る人びと
3、闇から明へ走る人びと
4、明から明へ走る人びと
ひとつめのタイプの人びとは、すべてが闇におおわれている状態です。
ですからいつも不幸なのです。
そして、最も不幸なことはその人びとの中には智慧がないことです。
つまり、苦しみに遭遇するたびに、善くないこころを増加させていきます。
善くないこころとは、欲、怒り、憎みといったものです。
また、自分が受けている苦しみの原因を他の人やものに押しつけ、
そして責めるのです。
智慧がないので、このようなことを繰り返し、欲、怒り、
憎しみといった闇のエネルギーを溜め込むのです。
当然ですが将来もその闇のエネルギーに覆われ続けるのです。
苦しみはいつまでたっても消えることなく、
より増えた状態となって現れるのです。
ふたつめのタイプの人びとは、俗世間的には地位や名誉、
さらには富にも恵まれているのですが、
やはり智慧がない人びとです。
智慧がない、つまり無智ですから“エゴ・自我”を増々育ててしまうのです。
“エゴ・自我”は、苦しみの種子や栄養となる煩悩を生み出す主(あるじ)です。
ですから、現在もそして将来も闇から抜けることはありません。
三つ目のタイプの人びとは、ひとつめのタイプの人びとと同じ状況にあります。
現在は闇に覆われた状態なのです。
しかし、大きな違いがあります。
それは、その人びとの内側には智慧が育っていて、
今の現状を平静に理解しています。
自分自身の苦しみの原因は他の人やものではなく、
自分自身のこころにあると理解しているのです。
ですから、智慧をもってこの現状(こころ)を善くしようと努力するのです。
智慧が育っていますから、欲や怒り憎しみに振り回されることはありません。
むしろ、優しさや慈しみのこころが育っています。
ですから、必ず“明”が現れるのです。
“明”があるのみなのです。
四つ目のタイプの人びとは、ふたつめのタイプの人びとと同じ境遇にあります。
俗世間的にいう地位や名誉、富に恵まれています。
しかし、ふたつめのタイプの人びと違うところは
“智慧”がしっかりあるということです。
ですから、自分の知識や技術、富を他の人びとのために使います。
困っている人びと、悩んでいる人びとのために使います。
優しさ、慈しみのこころで接するのです。
ですから、現在も将来も“明”なのです。
“明”とは智慧です。
智慧の光です。
闇は光に絶対勝つことはできません。
少しの光でも一瞬で闇は消えるのです。
このプログラムは“明・智慧”の光を理解し、経験して行くものです。
“明”に気づき、“明”の道を進もうとする方々のものです。
闇を一瞬で消し去る智慧の光を手に入れるのです。
智慧の光は消えることはありません。
悟りとはなにか
“悟り”とは一体なんでしょう。
悟りとは仏教語と言っていいでしょう。
お釈迦様が自ら悟ったと公に宣言したからですし、
実際悟られた方でもあったからです。
仏教はお釈迦様の説法から生まれたものです。
お釈迦様は、国王や祭司といったとても高い身分の方々だけではなく、
奴隷の身分の方たちにも説法されました。
しかし、お釈迦様自ら積極的に話されたわけではなく、
質問者が矢継ぎ早に現れることになったので、
その質問者の質問に答えるために説法をしたのです。
悟ったと宣言したのですから、
それは当然のことだったでしょう。
というか、お釈迦様はそこを狙っていたところもあるようです。
それまで誰一人として「私は悟りました」などと宣言した方はいなかったのですから、その注目度は凄まじいものだったでしょう。
“悟り”を目指して、それこそ命がけで何十年も修行を続けている尊者・遊行者、
教祖を差し置いて、まだ若い釈尊がそのようなことを大胆に宣言したわけですから、それはとてもセンセーショナルなことだったのです。
このようなことから、色んな質問者が現れ、それに答える説法をする。
そしてその質問に完全に答えるのです。
お釈迦様は議論しても負けることはありません。
かといって、相手を見下したり卑下したりすることはありません。
また、相手に反論することもありません。
しかし、相手はお釈迦様のお話しに納得してしまうのです。
喧嘩にならないのです。
それが「中道」なのです。
そういった質問者との対話の記録が仏教経典です。
そしてそれが「仏教」となるのです。
また、質問者は自分のことで頭が一杯ですから、
質問の内容もとても身近なものなのです。
ですから、そもそも(原初)の経典は私たちの身近な問題に対する答えでもありますから、実に具体的で分かりやすいです。
学者からするとそこが物足りないと思うようです。
小利口な学問のためのブッダの教えではありません。
一切の衆生の幸福のためなのですから、仕方ないことです。
ですから、私たちがよく見かけるお経とはまるで違います。
私たちがよく見る経典は大乗仏教のもので、原初の経典ではありません。
そして、どちらかというとても抽象的、幻想的な言い回しになっているようです。
あまり身近なものには感じられません。
あの『般若心経』もお釈迦様自身の直接の言葉ではありません。
後生の知識人の言葉なのですね。
さて、お釈迦様はわざわざ自ら悟ったと宣言しました。
本来、悟った方は自らそのようなことはしないものです。
というか、そのような心にはならないのです。
でも、お釈迦様は宣言しました。
そこがとても重要なことです。
これまで“悟り”に至った方は誰一人いませんでした。
つまり、“悟り”について誰も知らないわけです。
もし、誰も悟りについて伝えることをしなかったら、誰一人として“悟り”というものを知らずに今世を終えることになります。
それでは、“悟り”という、生命にとってとても貴重なもの、知るべきものが、また消えていくことになります。
誰かが伝えなければならないのです。
もちろん自ら悟った方がです。
その当時、お釈迦様しかいなかったわけですから、
お釈迦様が伝えることになるわけです。
しかし、当初お釈迦様は伝えることを止めようとしていました。
なぜなら、俗世間の流れに逆らわなければならなくなるからです。
悟りを説くというのは、つまり俗世間の見解、常識、概念、感情、主観、そういったものと逆のことを説かなければならなくなるからです。
それはとても大変なことですし、また、理解できる方がどれだけいるのでしょう。
しかし、梵天に懇願され、、、
「甘露の門は開かれた、耳ある者は聞きなさい」
と宣言されて伝道する決意をしました。
甘露の門とは悟りの世界に入る門といった意味です。
でも、条件がついているのです。
“耳ある者”という条件です。
「悟りの教えを理解する人」ということです。
もし、そういう人であれば“悟る”ことができるということです。
さて、では改めて悟りとは何でしょう。
というか悟った境地とはどういうことでしょう。
それは、私たちに常につきまとう、不安、不満といった空しさ、苦しみから解放されることと言えるでしょう。
つきまとう苦しみが滅び尽くされるということです。
“苦”がなくなるわけですから、あるのは“平安”“落ち着き”“穏やかさ”となります。
私たちの身の回りには、予期せぬ色んなことが起こります。
不幸だと思うことが本当に突然起こるのです。
人災、天災など突然起こるのです。
そんな時私たちは右往左往し、ショックに陥り、悩み、憂い、悲しみにくれたりします。
そのショックから立ち直ることができず、一生を過ごす人も沢山います。
とてもそれは悲しいことです。
しかし、そういった予期せぬ様々な現象に、右往左往することはなくなるのです。
振り回されることがなくなるのです。
落ち着いた状態でいられるのです。
すっきりしない漠然とした不安、空しさからも解放されます。
心から一切の煩悩(汚れ)が落ちた状態。
悟りには段階があります。
全部で四段階です。
それぞれの段階で滅び尽くされる煩悩があります。
最後の段階ですべての煩悩が滅び尽くされます。
そして、解脱となるのです。
ちなみに悟った方は見た目では分かりません。
最後の段階の悟りを得た方でも、見た目は普通の方です。
予言できる。
占いができる。
御利益を与えることができる。
超能力がある、、、。
そんなことはやりませんし、公言したりしません。
「この法は少欲のひとのものであり、多欲の人のものではない」
というブッダの教え(経典)があります。
偉大なる人(智者)は自分に優れた徳・能力があるにもかかわらず、他人に知られることを望まない謙虚な生き方(少欲)をし、わずかな徳・能力でも派手に宣伝して利益を求める生き方(多欲)をしない、ということです。
というか、そもそも“したい”とは思わないのです。
ですから、目立つことはないでしょう。
しかし、いつもこころが静かに安穏な境地にいますから、まわりも静かに落ち着いたこころに自然になるのです。
悟った境地について少し書いてみました。
言葉という制限された表現で喩えれば、このようなことになるでしょう。
何かとても陳腐な、ありきたりの表現になってしまいます。
私たちの心の根っ子にずっと居座っていた“不安”“空しさ”いった“靄(もや)”“闇”が消えた心状態というのは、誰も経験したことがない境地なのです。
ですから、それは本来誰にも表現することができないのです。
なぜなら、ブッダ以前そのような境地を経験した方がいなかったのですから、
当然、それに該当する言語すらないのです。
また、その境地というのは言葉という“相対”を表現するものでは、表現出来ないものなのです。
ラベルを貼ることができないのです。
ですから、ブッダは色んな角度から、様々な視点から、俗世間の言語を使ってその境地を語っています。
もちろんそのような芸当ができたのはブッダだけです。
このように“悟り”というのは誰も経験したことのない未知のものなのです。
言葉で表現することは不可能だということ、ですから聞かれても答えられないのです。
ブッダは悟り・涅槃について聞かれると無記(解答・言及を避けた)で答えたとのことです。
それだけ、言葉では説明困難なものなのです。
しかし、確かに“悟り”は存在するのは事実です。
では、どのようにしたらそのような悟りに至ることが可能になるのでしょう。
その方法をお釈迦様は自ら体験し発見されたのです。
その方法のことを「四聖諦(ししょうたい)」と言います。
つまり、お釈迦様の悟りとはこの「四聖諦(ししょうたい)」とも言えるのです。
恍惚感を得たとか、至福を得たとか、光が見えたとか、
神が現れたとか、女神に出会ったとか、、、俗によく言われる神秘体験があります。
こういったものは悟りではありません。
冥想中のサマーディ(集中)が高まった状態の時に現れたりするものです。
確かに悟りのプロセスにおいて、そのような体験をすることがあります。
そのような体験はあくまで幻想ですので、相手にすることはありません。
ただ、放っておきます。
それはその人の心の中にある“概念・想念”から生まれてくるものです。
その人の思い込みからのものです。
ですから、こういったものは正しい「禅定jhāna」でもありません。
あくまで幻想・ファンタジーです。
それを“悟り”と言ったりする方もあるようです。
しかし、それは違います。
「四聖諦(ししょうたい)」とは智慧につながる具体的な方法のことです。
智慧を得ることが悟りなのです。
智慧を得たらもう消えることはありません。
智慧を得るとは、真理を体験するということです。
あらゆるものごとの真実をありのままに観ることです。
「生きることは何か」その答えを体験することです。
私とはなにか。
人間とは何か。
生命とは何か。
生命はなぜ生まれるのか。
真理とは何か。
その答えを体験するのです。
体験することで智慧を得ることができます。
私とは何か、ありのままに体験するのです。
ありのままといっても、もちろん私たちが通常認識しているレベルのものではありません。
もっと緻密で繊細なレベルです。
ですから、決して神秘的なものではありません。
ファンタジーではありません。
「四聖諦(ししょうたい)」は悟りへの具体的なプロセスであり、方法であり、道標です。
そのプロセスは至って簡単です。
しかし、完成されています。
完璧です。
プロセスは次のようになります。
まず、私たちには常に不安、不満、空しさといった苦しみがついて回っていると知るのです。
これまでの人生を振り返ってみたらよく分かることです。
その苦しみが消え去らないから、いつまでたっても平安になれないのです。
では、なぜその苦しみは起こるのでしょう。
その苦しみの原因をしっかり知るのです。
苦しみの原因はもうすでにお釈迦様によって解明されていますので、
それをきちんと理解すればいいのです。
さらに、いつもつきまとってきた苦しみが消えてしまったらどうでしょう。
その世界はどのようなものか知るのです。
それもお釈迦様が教えてくれています。
そして、苦しみの原因を消す具体的な実践方法を知るのです。
苦しみが生まれる原因が明確になっているのですから、
その原因を根こそぎ断ち切るのです。
苦しみが出るたびに、その苦しみから逃げようと、楽にしてくれそうなものを追っかけたり、苦しみをちょっとした癒しで覆い隠そうとしても、苦しみが消えるわけではありません。
そうではなく苦しみが生まれる原因、つまり苦しみの根っ子を断ち切るのです。
そうすれば苦しみは二度と生まれてこないでしょう。
その方法も具体的にお釈迦様は教えてくれています。
まず、苦しみを理解し、その原因を知り、苦しみが消えた世界が実際あることを知り、
苦しみの原因を断ち切る方法を知り実践する。
これが、お釈迦様が悟ったプロセスであり、生涯説き続けたことであり、説き続けたかったことです。
「四聖諦(ししょうたい)」はお釈迦様が直接説いた形で約2600年間守られ、
現代でも変わることなく受け継がれてきています。
ただし、ここで言ってる「四聖諦」は初期仏教(原始仏教)によるものです。
大乗仏教のものではありません。
日本にある仏教は大乗仏教と呼ばれるものです。
大乗仏教になると初期仏教のものとは違うものになってきています。
本来「四聖諦」は悟りへの道の具体的な実践法になるのですが、
大乗仏教になると、哲学的に偏っていくようです。
誰でも実践できる生の実践法ではなく、
頭の世界、知識の世界になっていくのです。
学者レベルの世界のようです。
修行者の立場ではないのです。
もしそうでなかったら、私たちは菩提寺の和尚様から、悟りへの具体的な方法を教えてもらうことができたはずです。
また、そのような説法も聞いているはずです。
でも、そのような機会はなかったようです。
しかし、初期仏教の比丘(修行僧)たちは遠慮することなく、躊躇することなく、悟りについて、解脱について、涅槃についてどんどん説いてくれています。
それだけ“悟り”というものが身近なものなのです。
そして、彼らも悟りに至る具体的な実践方法である「四聖諦」を実践しているのです。
誤った見解を破り、智慧を得ること、それが悟りなのです。
神秘体験などいった感覚レベルのものではありません。
究極の幸福(悟り)に至る道
究極の幸福(悟り)とは、一切の“苦(dukkha)”から解放された自由自在な心の境地と言えます。
私たちは幸福を手に入れようとして、様々なことを試みます。
しかし、素適な服などでオシャレをしても、美味しいグルメを味わっても、大きな家に住んでも、富を築いても、
必ずつきまとう影があります。
それは、不安、不満、不足といったものであったり、空しさといったものです。
いずれにしても何かスッキリしないのです。
心が晴れ晴れとしないのです。
心にいつも靄(もや)がかかっているのです。
つまり“苦”の状態です。
その原因は一体何なのでしょう。
それは、私たち生命にそもそも備わっているあるエネルギーが関与してるからです。
あるエネルギーとは、煩悩・執着といった淀んだ、清らかでないものです。
その中で渇愛と呼ばれる煩悩が代表的なものです。
しかし、このエネルギーは私たちの心の根っ子にそもそもあるのです。
ですから、そう簡単に消すことはできません。
しかし、それを消さない限り永遠に私たちを“苦”の状態に引き戻し続けます。
今世だけでなく来世も、そのまた来世も、、、と永遠に続くのです。
「無数の生涯にわたり、あてどなく輪廻をさまよってきた、、、更に更にと生まれ変わるのは苦しいことである」
とブッダがおっしゃるように、それはとても苦しいことです。
つまり、悟りとはこの苦しみの原因である煩悩・執着から解放されることを言います。
煩悩・執着を滅ぼすことです。
その具体的な方法をブッダは覚りました。
その具体的な実践方法(道)を八つの聖なる道「八正(聖)道Ariya aṭṭhaṅgika-magga」と言います。
この道が究極の幸福(悟り)への唯一の道となります。
八つの道(実践法)とは何かを知り、ひとつひとつ実践し、理解し、経験することで、
煩悩・執着(渇愛)は滅びていきます。
自然にそういった流れになるのです。
この八つの道こそが、幸福の道、苦しみをなくす道、やすらぎの道へ至る、唯一の道ですよ、
とブッダはおっしゃっています。
悟りを開いたブッダが教える八つの聖なる道「八正(聖)道」を実践修習し、
煩悩・執着を滅ぼすこと、それが究極の幸福に至る具体的な道・方法です。
ブッダは何を悟ったのか
ブッダとは「覚者:悟った人」となるのですが、悟ったら“ブッダ”かというと、
そうではありません。
「無師独悟(むしどくご)」で悟りを開いた、
その世界の最初の覚者のことをいいます。
師からではなく、独りで修行し悟った方のことです。
それをブッダもしくは如来といいます。
ですから、ゴータマ・シッダッタがブッダであり如来なのです。
他の悟った方々はブッダではないのです。
悟ったことは同じなのですが、違う分類になります。
では、この世界で最初の悟ったブッダは何を悟ったのでしょう。
それは「四聖諦(ししょうたい)Cattāri ariya-saccāni」であるとされています。
この四聖諦を悟れたことでブッダになられたのです。
四聖諦とは四つの聖なる真理という意味です。
“苦”を滅尽するための真理です。
究極の幸福につながる真理です。
一切の束縛(煩悩)から解放された、悟り・涅槃・解脱の境地に導く真理です。
四聖諦は自然の真理と人間の実践をつなぐ架け橋となるものです。
四聖諦の一つの一つの真理を理解し納得していくことで、
一切の“苦”から解放される構成になっています。
つまりこの四聖諦の実践が究極の幸福(悟り)にいたる唯一の方法となります。
ブッダはご自身が悟ったこの聖なる真理「四聖諦」を生涯衆生に説き続けたのです。
「四聖諦」とは次の四つのことを言います。
1)苦聖諦:“苦 Dukkha”とは一体何なのかそれを知り尽くし、それがどこにあるのか、どんなものかきちんと理解します。
2)苦集聖諦:“苦 Dukkha”の原因を知り尽くし、理解します。
3)苦滅聖諦:“苦 Dukkha”を滅ぼし尽くした境地を知り、それを達するべきだと発見します。
4)苦滅道聖諦:“苦 Dukkha”を滅ぼし尽くす道“八正道”を実践修習し完成します。
このプログラムはこの聖なる四つの真理「四聖諦Cattāri ariya-saccāni」を
じっくり探究し理解を深め、実践していく流れとなります。
ブッダの時代この真理を実践し、“苦”を滅尽した修行者の告白の記録(経典)があります。
そのひとつが『Therīgāthāテーリーガーター』というもので『尼僧の告白(中村元訳)』と訳されています。
これを読むと当時の修行する尼僧たちの生々しい声が聞こえてきます。
リアルです。
その一部をご紹介してみます。
=======================================
「四度も五度も、わたしは、精舎から抜け出しました。心の平静を得ず、心を制することができなかったのです。
わたしはある尼僧に近づいて、恭しく敬礼して、尋ねました。
その尼さまは、次の教えを説き示してくださいました。
〔六つの感官と認識対象とを合わせた十二の〕領域と、〔十二の領域に六つの認識作用を合わせた十八の〕要素と、
最高の目的(悟り・解脱・涅槃)に達するための四つの尊い真理と、〔五つの〕すぐれたはたらきと、〔五つの力〕と、〔七つの〕〈さとりを得るためのてだて〉と八つの実践法よりなる道(八正道)とである。
わたしは、その尼さまのことばを聞いて、その教示を実行し、夜の初更(午後七時頃)に、前世のことを想い起こしました。
夜の中更にすぐれた眼(天眼)を浄めました。
夜の後更に〔無明の〕闇黒の塊を破り、
そうして、わたしは喜びと安楽感で身を満たして住(とど)まっておりました。
第七日目に、わたしは、〔無明の〕闇黒の塊を破り砕いて、両足を伸ばしました。」
…ヴィジャヤー尼
=======================================
お気づきの方もいらっしゃると思いますが、この告白の中には様々な修習のための用語が語られています。
・六つの感官
・認識対象とを合わせた十二の領域
・十八の要素
・四つの尊い真理
・五つのすぐれたはたらきと五つの力
・七つのさとりを得るためのてだて
・八つの実践法よりなる道(八正道)
これらが、究極の幸福(悟り)へ導くとても重要な鍵だというのが告白からもよく分かります。
ちなみにヴィジャヤー尼さんがおっしゃっていた具体的な修習法とは次のようなものになります。
・六つの感官とは
眼、耳、鼻、舌、身、意のことで六根、六処と呼ばれます。
・認識対象とを合わせた十二の領域とは
六処の対象となる色、声、香、味、触、法と六処を合わせた領域のことです。
・十八の要素
十二の領域にその領域を経ることであらわれる認識六つが加わったものです。
・四つの尊い真理
これが四聖諦です。
・五つのすぐれたはたらきと五つの力
修行の力を増加させてくれる信、精進、念、定、慧の力のことです。
・七つのさとりを得るためのてだて
悟りを完成させるための七つの要素「七覚支」と呼ばれるものです。
・八つの実践法よりなる道(八正道)
このプログラムでもこれと同じことを学び理解し修習していきます。
ヴィジャヤー尼さんは、この具体的な方法を他の尼さんに教えていただき、実践することで、
「すぐれた眼(天眼)を浄め、〔無明の〕闇黒の塊を破り、
喜びと安楽感で身を満たして住(とど)まり、
第七日目に、わたしは、〔無明の〕闇黒の塊を破り砕いて、両足を伸ばした、のです。」
両足を伸ばしたというのは、
組んでいた足を伸ばしたということです。
つまり、坐る冥想を終えて足を伸ばし、ほっと安らいだということです。
ちなみに八つの実践法よりなる道(八正道)が「四聖諦」の“苦滅道聖諦”のことです。
ですから“八正道”と四聖諦を合わせて「四諦八正道」とも言います。
これがこのプログラムで実践していくものです。
ブッダの覚った四つの真理を知り、しっかり理解し、
そして、八つの道“八正道”をじっくり丁寧に学び実践していきます。
この尼僧の告白を見るだけでも、ブッダの修習法はとても綿密で具体的に論理的に構成されているのが分かります。
曖昧ではなく、概念ではなく、きっちり“苦”を滅尽する仕組みが確立されているのがよく分かります。
そして、論理的だからといって女性(尼僧)に実践不可能なことではない、
ということがヴィジャヤー尼さんの告白によくあらわれています。
誰にでも確かめることができるようにできているのです。
他にも煩悩(欲)の世界に住み続けた、もと遊女であったヴィマラー尼さんの告白にも、
そのようなことがよくあらわれています。
=======================================
〔わが身の〕容色とすがたと幸運と名声に酔いしれ、若さにたよって、
わたしは、他の女人(にょにん)たちを見下していました。
愚かな男たちの言い寄るこの身体を、いとも美しく飾って、
網をひろげた猟師のように、私は娼家の門に立っていました。
秘密にあるいは露(あら)わに、多くの飾りを見せながら、
多くの人びとを嘲笑い(あざわらい)ながら、妖しげな種々の術を行いました。
そのわたしが、いまや、頭髪を剃り、大衣をまとって、托鉢に出かけて、
樹の根もとで〈思考せざる境地〉を体得して、坐しているのです。
天界と人間界の束縛は、すべて絶たれました。すべての汚れを捨てて、私は清涼となり、安らぎに帰しています。
…もと遊女であったヴィマラー尼
=======================================
このような修行者のリアルな告白からも、
ブッダ自らが覚った“四聖諦”が誰にでも実践でき、
そして確かめられるということがよく分かります。
ブッダの苦悩
ブッダは世間のどうしようもない“苦”を目の当たりにしました。
どんなにもがきあがこうと、どんなに財力や地位や力を駆使しようとも、
どうしても逃れられない“苦”があるのです。
生まれること(生)、老いること(老)、病にかかること(病)、死ぬこと(死)。
これらは、どんな生命であろうと逃れること抗うことはできません。
また、大切な人(モノ)といずれは別れなくてはならない苦しみがあります。
嫌な人と一緒にいたり出会ったり、嫌な環境で過ごさなければならなかったりする苦しみもあります。
このように生きるということには、どうしても避けることができない“苦”が影のようにつきまとうのです。
では、何のために私たちは生まれるのでしょう。
“苦”の影につきまとわれるために、生まれるのでしょうか。
何のために生きるのでしょう。
自分の夢・願望の実現。
“自己”実現。
“幸福”の実現。
このようなことが生きる目的としてよく言われます。
しかし、その夢や願望が実現したとしても、つかの間の出来事です。
泡沫のようなものです。
夢を実現しても、老いるのです。病は避けられないのです。
そして、絶対に“死”は訪れるのです。
また、大切な人との別れも必ず起こるのです。
ですから、必ず“苦”に帰ることになります。
あまりにも“空しい”ことになります。
ゴータマ・ブッダはそこに納得しません。
私たち人間という生命は何のために生まれてきたのか。
そして生きるとは一体どういうことなのか。
徹底的に探究しようと決意するのです。
ブッダは王子でした。
一国の王子です。
ですから、手に入れられるあらゆる“楽”は享受するこができたでしょうし、
実際、享受していたでしょう。
着るもの、食べるもの、住むところ、歌舞音曲など最上級のものを存分に味わったでしょう。
また、その暮らしはハーレムだったのかもしれません。
庶民が憧れ欲する“贅沢”を味わい尽くしていたのだと思います。
しかし、そのような“贅沢”に満たされた暮らしを捨てるのです。
国も捨てました、民も捨てました、親も妻も子供も捨てました。
名声、名誉、地位、肩書きなどといったものを自ら捨てたのです。
そして遊行者になってしまったのです。
乞食のようなものになってしまったのです。
なぜ、そのようなことをしたのか凡夫には理解できないでしょう。
しかし、ブッダの中にはもちろんその意図するところは明確にありました。
それは“苦”からの解放なのです。
ブッダ自身も、苦しんでいたのです。
そして、四方見渡す限り“苦”にとりつかれたものばかりなのです。
すべてが“苦”という状況から免れることができないのを観たのです。
どんなに贅沢を究めようと“満たされないもの”がある。
とブッダは知り尽くしていました。
その満たされないものの正体は一体何なのか。
もし、その“満たされないもの”がどのようなことをしても消えないのなら、
人間として生まれ生きる理由は何んなのか。
生きるとは一体なんなのか、、、。
その真理を探究し、その答えを見つけようとしたのです。
そして、修行に励みついに発見するのです。
どんなことをしても消えることができなかった“満たされないもの”、
“苦”を滅ぼし尽くすことができたのです。
悟ったのです。
すべての真理を発見したのです。
“苦”から解放されたのです。
そして、一切の苦から解放する方法をも明らかにしたのです。
では、その方法とはどのようなものだったのでしょう。
その方法は、今でもきちんと整理され残っています。
しかし、ブッダの覚った“法・ダンマ”を理解するのは難しいかもしれません。
なぜなら、私たち凡夫が常識のように思ってきた“人生論”とは真逆だからです。
ブッダは悟った後このように言っています。
「貪(むさぼ)りと瞋(いか)りにやられてしまっている人々が、
この法をよく悟ることはない」
「これは流れに逆らうもので、、、、貪欲に染まり、暗闇に覆われている者には
見られることができないのだ」
ブッダの時代も世の中の人びとというのは欲と怒り、
そしてそれらを生み出す根っ子である無智という暗闇に覆われていたのです。
それが世の流れだったのです。
その流れに逆らうのは無理(大変)だと考えたのです。
これは現代でも同じです。
現代のほうが更にひどい状況かも知れません。
このようにブッダが覚った“ダンマ(法・真理)”は、
世間の流れとは逆の方向に進むことだったのです。
つまり世間が幸福になろうと必死になっているものは、
不幸の流れと言えるでしょう。
ブッダのダンマ(法・真理)は、一切の苦から解放されることなのです。
“苦”の根っ子を根こそぎ断ち切ること、なのです。
鼻先にちらつく、幸福という得たいの知れないニンジンを追いかけるロバになることではありません。
実際に、誰しもが味わっている“苦”を減らし、そして最終的にその“苦”を滅尽することです。
“苦”がなくなった心の境地。
一切のものから解放された心の境地。
悟り・涅槃・解脱の境地。
寂静、平安、安寧、安穏、平和、、、。
“幸福”という得たいの知れないものを、未来(鼻先)に求めるのではありません。
“苦”の本質を知り、苦の種子を滅ぼすことが“幸福”なのです。
ブッダ時代の弟子がこのような告白をしています。
「わたしの身体は、崇高な喜びと楽しみに触れて、軽やかです。
わたしの身体は、風に吹かれた綿のように、浮かんで跳びます」
このようなリアルな告白が沢山残っています。
ブッダの説いた幸福への法・ダンマを実践して得た境地です。
このように一切の“苦”から解放された人びとが数えきれないほどいるのです。
ですから、ブッダの幸福論は学問ではなく、
具体的な実践論なのです。
ブッダは学者でもなく作家でもなく、
実践者であり、指導者なのです。
そして、今なおその実践法は存在しています。
ブッダの最初の説法
説法することを止めようとしていたブッダはサハンパティ梵天に請われ、
そのダンマ・実践法を衆生に説くことを決意します。
「この世にも調べれば、煩悩に沈んだ大衆ばかりでなく、理性のある人がいるはずです。その人たちにその真理を教えて下さい」と請われたのです。
真理を真に理解する「耳ある人」に説くことを決意されるのです。
まず、ブッダが修行時代に師事した二人の先生に、
そのダンマを伝えようと思うのですが、お二人とも既に亡くなれていました。
ブッダは出家したときからずっと一緒だった五人にそのダンマを説こうと思い、
彼らを探し遠い道を独り歩みます。
その五人は同じ修行仲間でもあったのです。
苦しい修行も一緒にやった仲間なのです。
ですから、きっと理解してもらえると思ったのでしょう。
しかし、その五人もブッダの説こうとするダンマ・真理を素直に聴こうとはしません。
ブッダが断食などの苦行の無意味さを知り、
苦行を止めてしまったことを恨み、根に持っていたのです。
ブッダは、彼らにとって裏切り者、脱落者、になっていたのです。
しかし、ブッダは、
「私は苦行を捨てたが、堕落したのではない。私は真理を発見しました。
究極の安らぎ・幸福を発見しました。達するべきところに達したのです」と、
その真理を聴くようにうながします。
しかし、五人は納得しません。
このようなやりとりを三回繰り返しました。
「これまで私は一度だって、嘘をついたことがあったでしょうか?」
この言葉で彼らは黙ってしまったのです。
ブッダは嘘をつく人ではないからです。
「決して嘘をつかない」というのがブッダの国、釈迦民族の誇りでもあったからです。
この言葉でやっと彼らはブッダの話しを聴く気になったのです。
そこで、ブッダは
「これから私を友と呼んではいけません。私は説法をします」と、
自分が教える立場であることを宣言します。
これがブッダの最初の説法です。
このときこの場所にはこの五人の他に、鹿ばかりだったと言われています。
そこでブッダは、初めて真理を説かれました。
世の中で初めて真理を説かれた瞬間だったのです。
説法は一週間も続いたそうです。
このブッダの最初の説法のことを「初転法輪(しょてんぼうりん)と言います。
この初転法輪は“四聖諦”を発表する目的で説かれたのです。
つまり、“四聖諦”がブッダの説きたかった真理であり、
それを伝道することがブッダの生涯となるのです。
この説法を聴いて、五人の修行者のうち最年長だったコンダンニャが悟りの最初の階梯に入りました。
ブッダは、、
「コンダンニャが悟った、コンダンニャが悟った」と喜びの声を発しました。
そのくらい嬉しかったようです。
ブッダの説いたダンマ(法・真理)で、ブッダ以外の人が初めて悟りの階梯に入ることができたのです。
ブッダにとって、それはこの上ない喜びだったのです。
ブッダはその後五人の弟子たちに、三ヶ月かけて毎日、毎日真理を教え、自己観察の冥想も指導したのです。
そして残りの四人も悟りの最初の階梯に入ることができました。
“四聖諦”がブッダの説いた真理であり、
その四つの真理を知り尽くし、その義務を果たし、
そして完成させることを説いたのです。
“四聖諦”がブッダが最初に説法したことであり、
生涯、変わることなく説き続けるダンマ・真理なのです。
このプログラムで学ぶこと実践修習すること
■四聖諦(Cattāri ariya-saccāni):一切の苦から解放される(悟りの)ためのブッダのプログラム
1)苦聖諦:“苦 Dukkha”とは一体何なのかそれを知り尽くし、それがどこにあるのか、どんなものかきちんと理解します。
2)苦集聖諦:“苦 Dukkha”の原因を知り尽くし、理解します。
3)苦滅聖諦:“苦 Dukkha”を滅ぼし尽くした境地を知り、それを達するべきだと発見します。
4)苦滅道聖諦:“苦 Dukkha”を滅ぼし尽くす道“八正道”を実践修習し完成します。
■八正(聖)道(Aṭṭhaṅgika-magga):一切の苦から解放されるための具体的な道
正見 Sammā-diṭṭhi 完全なる見解
正思惟 Sammā-saṅkappa 完全なる思考
正語 Sammā-vācā 完全なる言葉を語ること
正業 Sammā-kammanta 完全なる行為
正命 Sammā-āvīva 完全なる職業
正精進 Sammā-vāyāma 完全なる努力
正念 Sammā-sati 完全なる気づき
正定 Sammā-samādhi 完全なる心の統一
この四諦八正道がこのプログラムのすべてであり、土台で根本原理になります。
■三相:一切の真理について
ブッダは一切の真理は、存在しそのものの法性(根源的性質)のままに進む自然界の法則であることを発見しました。
その、一切の真理、自然界の法則とはどのようなものなのでしょうか。
ブッダはそれを「三相(さんそう)ti-lakkhaṇa」という形で説かれました。
それは、すべてのものは無常(Anicca)、苦(Dukkha)、無我(Anattā)であるという真理です。
理解を得やすくするために、三つの方向から自然の法則を説くことをしたのです。
ブッダの発見したこの一切の真理を学びます。
ヴィパッサナー冥想の修習は、この三相を実際に体験し理解し納得するために行われるのです。
■三学(Tri-sikkhā):八正道の具体的な実践法
八正道を具体的に実践するのためのものです。
総合的に人間という生命の格を成長させる(超える)ために、
行為、心、慧の三つに分類しそれぞれを開発(かいほつ)することを行います。
1)行為の開発:戒sīla
2)心の開発:定samādhi
3)慧の開発:慧panññā
・戒:一切の悪をなさず
戒と言われる善良な行為を起こして身につけて自分のものし、善き行為を開発すること
正語、正業、正命
・定:善を十分に行う:心のすべての面の特性の開発
正精進、正念、正定
・慧:心を浄くする:知識、理解を開発する
正見、正思惟
■縁起の法則:“苦”が生まれる因縁の法則を学びます。
なぜ生命が生まれるのか。
なぜ、“苦”が生まれるのか。
“苦”が生まれるその根っ子(種子)の正体は何か。
どうしたら“苦”を滅尽できるのか。
そのプロセスを学びます。
■生命を構成する五つのエネルギーの塊
「生命とはなにか」「私とはなにものか」という問いに対するブッダの答え
“五蘊(ごうん)”について学びます。
■こころにフタをする五つの障害
私たちのこころにフタをしてしまい、こころの解放を邪魔する五つの障害があります。
それを“五蓋(ごがい)”と言います。
この煩悩はとても強力で、私たちのこころを曇らせ、濁らせるものです。
この五蓋というフタ(蓋)について知り、それを外すべきだと知ります。
このフタは冥想の妨げにもなるものです。
しかし、冥想の状態を把握する基準にもなるものです。
この五蓋が消えた状態が、定samādhiが強い状態であり、
こころがとても清らかに澄んだ状態なのです。
そのことについて学びます。
■悟りの階梯
ブッダが示した悟りには階梯があります。
その階梯はそれぞれ細かく定義づけされています。
そしてそれぞれの特徴もよく分かるようになっています。
決して曖昧なものではありません。
その階梯について学びます。
目指すべき悟りの階梯について知るのです。
■冥想の実践修習
ブッダの説いた冥想法を実践します。
冥想が四諦八正道成功の鍵になってきます。
ヴィパッサナー完成のための八正道である、といっても過言ではないでしょう。
ブッダは最高の冥想者であり、最上の冥想指導者だったのです。
そんなブッダの冥想を理解し実践修習します。
<サマタ(止)冥想samatha-bhāvanā>
こころを統一するものです。
三学の心の開発に相当する、定samādhiを強くする修習です。
数多ある冥想法から、ブッダが厳密し選んだ40種類の冥想法があります。
その中で最も重要とされる冥想法を実践します。
次のふたつの冥想法を修習します。
・アーナパーナ・サティ(安般念ānāpānassati)
ブッダはこの冥想法をとても奨励しています。
「比丘たちよ呼吸への気づきを通じて、この集中が育成されよく修習されるなら、平安であり、最上である。
それは完全な至福であり、邪悪で不善な思考は起こるや否や生滅し静まる」
「すべてのブッダ、パッチェカ(独覚)・ブッダ、そしてブッダの弟子たちが卓越した成果を達成し、
今ここに至福を得る足がかりとして、いろいろある冥想法の中でアーナパーナ・サティが最上である」
このようにこの冥想法が最上とされています。
・慈悲(メッター)の冥想(mettā-bhāvanā)
私たちの心の根っ子には、必ず煩悩が根付いています。
その煩悩は“エゴ・自我”によって増々エスカレートしていくのです。
固執した“私“というものがある限り、エゴ・自我は消えることはありません。
しかし、なかなかエゴ・自我を落とすことはできないのです。
エゴという我がままを退散させるには、
“慈しみのこころ”を育てる必要があるのです。
“慈しみのこころ”こそが、我がままを静かに退散させることができるのです。
放っておいたらエゴは調子にのって好き放題してしまいます。
増々苦しみの原因である煩悩を増やしてしまうのです。
ですから、意識して“慈しみのこころ”を育てるのです。
そのためには冥想が欠かせません。
「あたかも母が、たった一人の我が子を、命がけで守るように、
そのようにすべての生命に対しても、無量の“慈しみ”のこころを育てて下さい」
「慈しみのこころを一切世間(すべての生命)に対して限りなく育てて下さい。
上に、下に、横(周り)に棲む如何なる生命に対しても、わだかまりない、
怨みのない、敵意のないこころを育てて下さい」
「立っている時も、歩いている時も、坐っている時も、
あるいは横になっていても眠っていない限り、この慈悲の念をしっかり保って下さい。
これが梵天(崇高なもの)の生き方であると言われています」
このようにブッダはおっしゃっています。
慈悲の冥想を修習することで、一切の生命に対する差別のない公平で平静なこころが育つのです。
世の中の諍い、争いのスパイラルから抜けられるのです。
<ヴィパッサナー(観)冥想(vipassanā-bhāvanā)>
ありのままの事実を明確に洞察するものです。
一切の真理である三相(無常・苦・無我)を、実際に体験し理解し納得するためのものです。
三学の智慧の開発に相当するのがこの冥想法です。
ブッダが悟りを開いた時の冥想法となります。
如実知見(にょじつちけん)、物事、現象をありのままに明確に観察する冥想法です。
ブッダが発見した冥想法です。
・マハーシ式
・ゴエンカ式
・パオ・メソッド式
と俗に呼ばれるこの三つが現在ヴィパッサナー冥想の主流となっています。
俗の呼称ですから正式な名称ではありません。
冥想指導された方の名からきています。
上から順にマハーシ・サヤドー(ウ・ソーバナ長老)、S.N.ゴエンカ、パオ・セヤド(ウ・アチンナ長老)という方々の指導によるものです。
サヤドー、セヤドというのは長老(指導者的立場の方)を意味する尊称となります。
残念ながらマハーシ・サヤドー師、S.N.ゴエンカ師お二人は他界されています。
パオ・セヤド師は現在三代目としていらっしゃいます。
ですから、直接これらの師からご指導を受けることは難しい状況です。
ちなみにゴエンカ式の場合、指導者であるS.N.ゴエンカ師は僧ではありません。
在家指導者だった方です。
レディ・サヤド(ニャーナダジャ長老:テーラワーダ仏教)の孫弟子から指導を受け、ヴィパッサナーを世界に広められた方です。
いずれの方式もテーラワーダ仏教(初期仏教)の長老方に由来するものです。
ブッダの冥想経典の中で二千五百年もの間、変わることなく最も重要視され続けている『安般念経 ānāpānassati−sutta』『大念処経Mahāsatipaṭṭhāna-sutta』『念処経satipaṭṭhāna-sutta』によるものです。
また『清浄道論Visuddhimagga』という修行者の綿密な修習法を記した、ブッダゴーサ長老による注釈書も合わせてその土台となっています。
ブッダの冥想そのものと言えるでしょう。
このプログラムではマハーシ式と呼ばれるものをベースに修習していく予定です。
修習する中で、ゴエンカ式、パオ・メソッド式に興味を持たれる方は、その旨おしゃって下さい。
可能な範囲で、その情報をお伝えすることができると思います。
※ブッダの冥想とマインドフルネスについて書いたものがあります。
参考までにこちらをご覧下さい。
■こころを清める七つの清浄
この修行をすることで、人間は確実に高いレベルの人格に向上します。
それはこころの汚れが落ちて、清らかになるということです。
智慧(法・真理)も徐々に現れてきます。
本格的に究極の幸福(悟り・解脱)を目指す修行者が、そのゴールにいたるには具体的にどのように精進(努力)すればよいのか、そのための方法があります。
こころを清めるプロセス「七つの清浄」というものを知り、理解し、経験します。
こころを洗濯するには、七つの段階があるということです。
これはヴィパッサナー冥想成功の鍵となるものです。
■悟りに至る七つのパーツ
悟りにいたるには七つのパーツがあり、それら七つをまとめることでこころの中で悟りが体験できることになっています。
“普通”のヴィパッサナー冥想を実践することで、普段の暮らしにおいて、確かにこころが清らかになって性格もしっかりとできあがってきます。
そして、それなりに徳もたくさんあります。
しかし、ブッダが説いている脱世間的な次元、人間(生命)という次元を超える悟りという境地まで行くためには、やはり”普通”のヴィパッサナー冥想ではこころはなかなかその次元に進めません。
悟り・解脱を真の目的とし、こころの真の成長を願って冥想を実践するつもりなら、やはりダンマ(法・真理)という、ブッダの教えが必要となります。
ヴィパッサナーというテクニックだけ実践しても、
それは俗世間的な次元止まりなのです。
この七つのパーツが揃ってくると、本当の意味で、悟り・解脱のためのヴィパッサナーが段階ごとにスムーズに進んで行くことになっています。
■沈黙行の励行
“聖なる沈黙行”も合わせて修習します。
聖なる沈黙とは、私たちの行為を静寂なものにするためのものです。
こころを清らかにするための行とも言えます。
私たちはあまりも無頓着に常日頃行為しています。
それはある意味粗暴とも言えるでしょう。
とにかく雑なのです。
行為には三つの行為があります。
身体によるもの、言葉によるもの、思考によるもの、の三つです。
これらを沈黙させる、静寂にさせるための行を行います。
具体的には、話すこと(言葉に発すること)を沈黙します。
また、ジェスチャー、手話、メモ書きなどといったコミュニケーションも沈黙します。
どうしても必要な場合に限り、主催者(スタッフ)と話すことができます。
ブッダの歩く姿に多くの人びとが惹かれ、こころが静かになったと言われています。
なぜかというと、ブッダが“ただ”歩く方だったからです。
何の執着も、何の囚われも、欲といったものも微塵もなく、ただ歩いているからです。
それは、とても澄んだ清らかな景色に写ったことでしょう。
ブッダご自身が、聖なる沈黙そのものだったのです。
ほとんどの人間は、常に何かを求めて、モンキーマインド(せわしなく落ち着くことのない心)に陥り、
煩悩という汚れを身にまとい行為しています。
“聖なる沈黙”を励行することで、私たちの行為が清らかになっていきます。
また、冥想修行の妨げとなる感覚器官(五感)への刺激を制御することができます。
人の声、動き、といった刺激は私たちのこころに大きく影響します。
私たちのこころを大きく振動させてしまうのです。
その振動が私たちのこころを動揺させるのです。
落ち着き、穏やかさ、安らぎといった静かなこころを砕いてしまいます。
聖なる沈黙を守ることで、そのようなことから解放されていきます。
沈黙行は「冥想会」において行います。
あらかじめ決められた時間の範囲で実践します。
■ダンマに集う会
このプログラムは、長期継続して修習することで、真の理解、智慧を得ることができるようになります。
智慧が開かれれば、もうその扉は閉じることはありません。
そのためには継続修習することが必須な条件となります。
無始より溜め込んできた“苦”の種子、“苦”の栄養である煩悩・執着というエネルギーは、
そう簡単に滅ぼすことはできません。
やはり、じっくり丁寧に継続して修習することが大切です。
あせりは禁物です。
短気は損なのです。
かえって遠回りすることになります。
修習は独り行うものですが、
やはり人間という生命は弱いものですから、
どうしてもなにか支えとなるものが必要となります。
自分が抱える悩みや苦しみを、素直に出すことができる場が必要とされます。
しかし、その場が俗世間的な見解(思い)の場であるのならば、
それはかえって煩悩を増やすことにもつながり、修習の妨げになるものです。
そうではなく、ブッダのダンマ(法・真理)を同じように求める仲間が集う場であるのなら、
それはかえって力強いものになるでしょう。
そのような場を「ダンマに集う会」としてこのプログラムでは設けます。
ブッダの言う善友(ぜんう)が集う会です。
定期的に随時この会を設けることで、お互いの力づけ、励み、勇気、を育てることができます。
さらに、“慈悲のこころ(慈悲喜捨)”を育てることにもなります。
プログラムの構成
以下の構成をじっくり丁寧に一年程度かけて修習します。
※単発での体験参加も受付ております。その旨ご連絡下さい。
■坐学編
ダンマの知識を学び理解する
四聖諦
八正(聖)道
三相
三学
縁起の法則
五蘊(ごうん)
五蓋(ごがい)
ブッダの心理学(心の分析、心の中身の分析など)
主に、これらについて何度も繰り返し考察します。
■実践修習編
冥想(サマタ、ヴィパッサナー)の実践
三学(八正道)の実践
■ダンマに集う会
日々の中に起こる悩み、苦しみ、疑問などを善友同志で分ちあい、勇気、意欲を育みます。同時に慈しみのこころも育てます。
■沈黙行励行
聖なる沈黙行により、無意識で雑な行為を鎮め、心の清らかさを育みます。
※これらの詳細につきましては「このプログラムで学ぶこと実践修習すること」を再度ご確認下さい。
開 催 概 要
【開催期間(予定)】
毎月三回、土日祭日を目安に開催する予定です。
平成30年2月上旬をめどに第一回目を開催する予定です。
※単発での体験参加も受付ております。その旨ご連絡下さい。
【今後の開催予定】
第一回:平成30年2月24日(土)午前10時〜午後5時(終了)
第二回:平成30年3月10日(土)午前10時〜午後5時(終了)
第三回:平成30年3月17日(土)午前10時〜午後5時
※一日瞑想会開催予定
第四回:平成30年3月25日(日)午前10時〜午後5時
第五回:平成30年4月14日(土)午前10時〜午後5時
第六回:平成30年4月21日(土)午前10時〜午後5時
第七回:平成30年4月28日(土)午前10時〜午後5時
第八回:平成30年5月13日(日)午前10時〜午後5時
第九回:平成30年5月19日(土)午前10時〜12時(午前のみ)
第十回:平成30年5月26日(土)午前10時〜午後5時
第十一回:平成30年6月10日(日)午前10時〜午後5時
第十二回:平成30年6月16日(土)午前10時〜午後5時
第十三回:平成30年6月23日(土)午前10時〜午後5時
第十四回:平成30年7月7日(土)午前10時〜午後5時
第十五回:平成30年7月14日(土)午前10時〜午後5時
第十六回:平成30年7月21日(土)午前10時〜午後5時
第十七回:平成30年8月5日(日)午前10時〜午後5時
第十八回:平成30年8月18日(土)午前10時〜午後5時
第十九回:平成30年8月24日(金)午前10時〜午後5時
※6月8日現在で決まっている開催予定となります。
【プログラムの流れ】
・期間…一年程度
・開催スケジュール
月三回程度開催します。
三回とも原則一日かけて修習することとします。
坐学編:月二回程度
実践修習編:一日冥想会(月一回)
坐学後冥想会(月二回)
ダンマに集う会:坐学編、実践修習編の開催日に集うことにします。
・開催日程の詳細は一ヶ月〜二ヶ月前に事前に告知する予定です。
原則として土曜日もしくは日曜日の開催を予定しています。
・修習一日のタイムスケジュール
<坐学編>
ダンマの知識を学ぶ 10:00〜12:00
<実践修習編>
冥想 13:00〜15:00(沈黙行の実践)
※グループ冥想、自主冥想
<ダンマに集う会及び質問>
15:00〜16:30
<終了>
17:00
・一日冥想会のタイムスケジュール
受付開始以降、ダンマに集う会まで“沈黙行”に入ります。
午前の部:説明 9:45〜10:45
グループ(体験会参加者含む)冥想 11:00〜11:30
自主冥想(休憩) 11:30〜12:00
※冥想体験会参加者は質問時間の後終了。
一日冥想会参加者は午後継続して修習を行います。
午後の部:グループ冥想 13:00〜13:30
自主冥想(休憩)13:30〜14:20
グループ冥想 14:20〜15:00
ダンマに集う会及び質問 15:10〜16:30
終了 17:00
※個別指導
このプログラムは基本的に複数参加者に対してのものですが、
日程等の都合でご参加できない方に対しては、
個別(パーソナル)に教示することも可能です。
希望される方は下記【参加申込・問合せ先】までご連絡下さい。
【講師・瞑想者】
井澤直樹
プロフィールはこちら。
【会場】
藤枝地区交流センター
〒426-0015静岡県藤枝市五十海3-12-1
電話:054-631-6451(交流センター)
【交通アクセス】
・車
マップをご覧下さい
専用駐車場有り
・電車
最寄駅:JR東海 西焼津駅
・バス
しずてつジャストラインバス利用
会場最寄停留所は「五十海」もしくは「五十海北」となります・
最寄停留所から会場まで徒歩5分程度となります。
バスの時刻表です。
参考にして下さい。
変更されている場合もありますので、下記「バスの時刻表詳細」をご確認下さい。
<平日>
往:五十海大住線 藤枝大手・五十海北・清里方面行
西焼津駅南口 9:10 乗車 → 五十海 9:25 降車 (もしくは五十海北9:26)
復:五十海大住線 西焼津駅・大住・焼津市立病院方面行
五十海 16:41 乗車 → 西焼津駅南口 16:57
<土・日・祭日>
往:五十海大住線 藤枝大手・五十海北・清里方面行
西焼津駅北口 9:52 乗車 → 五十海 10:05 降車 (もしくは五十海北10:06)
復:五十海大住線 西焼津駅方面行
五十海 17:36 乗車 → 西焼津駅北口 17:51
※土日祭日の停留所は西焼津駅北口になります。ご注意下さい。
※バスの時刻表等の詳細はこちらをご確認下さい。
・タクシー
西焼津駅南口に常時待機しています。
【参加費】
月三回開催のための定額のお布施として15,000円(毎月)を基準にしたいと思います。
12ヶ月間の開催を予定していますので、一括してお布施を希望される場合には160,000円を基準にしたいと思います。
(※基準はあくまで目安です。もちろん増減しても構いません。その時のお気持ちです。)
ブッダの教えに三つの善行為(kusalaクサラ)というものがあります。私たちにどのようなことが善行為なのか教えてくれています。
一、布施(dânaダーナ)
自分のもの(無形有形)を何か差し上げること。
二、戒(sīlaシーラ)
身体と言葉で過ちを犯さないように自分を守ること。
三、修習・修行(bhāvanāバーヴァナバー)
“苦”の根源である汚れている煩悩を消すために行う心のトレーニングのこと。
これら三つの善行為を行う事で私たちのこころは清らかになるのです。
戒(sīlaシーラ)、修習・修行(bhāvanāバーヴァナバー)はこのプログラムで実践していきますので、布施(dânaダーナ)が実践されることで、三つすべての善行為を実践することになります。
お布施の方法につきましては、参加申込された方に直接ご案内させていただきます。
お釈迦さまは「人間に一番必要なのは物質的な豊かさよりも心を育てることですよ。
心を育てておけば、死んでからも輪廻で残ります。だからお金をあげるよりも、ダンマ(真理・法)を教えることが最高の徳ですよ」とおっしゃっています。
しかし、ダンマ・法を教えるためにはダンマ・法を知っていなければなりません。
ですから、誰にでも実行できることではありません。
このダンマ・バーヴァナー・プログラムは、そのダンマ(真理・法)を修習するためのものです。
参加される方がそれぞれダンマを修習し、そしてダンマをまた他に教え、最高の徳を積んでいく。
そういう善の流れを継続させていくためのものです。
参加費(お布施・ご喜捨)に対する質問、相談等は下記「問合せ、参加申込」からお願いします。
※お布施ダーナについてテーラワーダ仏教の長老の法話が載っています。
お読みになっていただけたら、理解が深まることでしょう。
・お布施について
【主宰】
〒426-0204
静岡県藤枝市時ヶ谷372−18
“こころ”の学校
管理者:ヒューマン・ハーバー
電話:054-631-5337
Email:human_harbor@moon.tnc.ne.jp
PDF版